入社された頃を覚えておられますか。
入社して数年が経った頃の記憶だと思いますが、当時は社員数40名くらいの小さな会社でした。工事とメンテナンスに特化し、業務は建設現場での作業がメインでしたので、社内にいつも職人さんたちがいて、今とまったく違う職人気質な雰囲気でしたね。私は現場で竣工調整作業をしていました。
その後、バブル景気の日本において、当社も順調に事業を拡大。その間、仕事の内容はほぼ変わらずでしたが、40名ほどだった社員は急増していきました。それだけの仕事量が世の中にあったわけです。東京・杉並で創業し世田谷などを拠点に事業を展開していましたが、いくつか地方に営業所を開設するなど、発展する大都市へも進出していったという感じです。
やがて昭和の終わりくらいでしょうか、アナログだった建物の自動制御がどんどんデジタル化し、用途も高度化していきました。例えば医療では、進化していく医療技術に合わせた病院の建て替えが目立ちました。「インテリジェントビル」という言葉も業界では流行りましたね。「ビルがデジタル化して知能を持つ」といったイメージで、AIという言葉も、当時初めて聞いた覚えがあります。ただ今みたいに立派なものではなく、ちょっと人間が困った時に、簡単なコメントで助けてくれる程度の機能でしたが。 また、再開発物件が非常に多かった時代でした。例えば、千葉では「幕張メッセ」が開業した頃ですし、同年ごろ横浜「みなとみらい」でも再開発が始まりました。いろいろな場所で再開発が進んでいきましたので、そこへ拠点を置こうと考える企業は多く、私たちにとっては商機でした。あるメーカーからは、大阪で事業拡大の計画があるため、一緒に大阪へ進出してほしいというご要望をいただきました。
転機や、経営に大きなインパクトを与えた出来事は。
50年間において大きな出来事といえば、まずは平成元年にある大手メーカーの技術品質認定と販売認定を受けた代理店になったことですね。そのメーカーがビルオートメーション事業を始めるということで、 その協力会社が必要になったわけです。お声をかけていただいた理由は、やはり当社に実績やノウハウがあったからこそだと思います。そこから顧客が設計事務所、サブコン、ゼネコン、施主へと変化していきました。そして、業務にも変化が生まれました。設計業務にはじまり、制御盤の製作、現場でのエンジニアリング、施工管理など、多様な業務に対応しなければいけなかった。そうすると、新しいことに取り組んでいく必要が出てきます。私は、新しいことに挑戦していく最前線で、増えていく社員とともに格闘する日々でした。それが今日につながっています。それがなければ、当社は今も「現場の工事屋さん」だったかもしれません。
また、バブル崩壊後の1995年頃は国内のメーカーがコストダウンのために生産拠点を海外に移すケースが非常に増えた時代でした。当時、当社はビルやオフィス関連の受注はしておらず工場における計装工事が多かったため、国内に仕事がないという状況に陥りました。当然、経営的に厳しかったわけです。これを自分たちの力で乗り切るため、先ほどのメーカーがシンガポールへ工場を建設するのを機に、当社でも2001年に現地へ支店を設けました。スタッフわずか4人の支店でしたが、連結で一定の売上を確保し、一時的なピンチを救えた出来事でした。さらに海外での展開も考えましたが、その後、日本国内での受注が回復し忙しくなっていったことで、海外での事業は一旦そこまでとなっています。
その後、2008年のリーマンショックまで事業は穏やかな回復でした。バブル崩壊後に落ち込んでいた単価も、随分と回復していました。とはいえ、リーマンショックで仕事がなくなり、当社も売り上が大きく落ちました。ですから、仕事といえるものなら、何でもやりましたね。
そして現在の体制に至る、大きな出来事が近年にあったわけですね。
そうです、やはり大きいのは2019年に株式譲渡契約の締結によって東テクグループの傘下に入ったことですね。ただ、その前の2018年にアーチバック株式会社を設立したことにも触れなければなりません。
アーチバックは、海外製の空調自動制御機器などを日本で輸入・販売、そして工事・保守をしていた会社から空調事業を譲渡される形で設立した会社です。その会社はヨーロッパの世界的な電機メーカーのソリューションパートナーで、その製品力を背景に、日本国内においても5,6番手の自動制御機器企業でした。アイ・ビー・テクノスとしては、事業譲渡によって自動制御機器メーカーとしての顔をもつことができたんですね。メーカーとしての立ち位置で仕事ができるようになることで、あらたな事業展開が期待されました。
その電機メーカーとしても、日本における販売強化が期待できるという考えだったのではないでしょうか。この電機メーカーの知名度によって、当社には日本へ進出している外資系企業から引き合いや相談が増え、今までになかったお客様とのビジネスが生まれました。顧客の幅が広がったことで、年間の売り上げは5~6%のアップにつながっています。この電機メーカーは特に医薬系企業との取引実績をもち、業界で評価されていたため、当社でも外資の医薬系企業からの引き合いが多くなりました。海外において医薬系の装置は、日本でいう薬事法に絡んで、コンピューターバリデーションの見地から高度なものを求められる傾向があります。そのため勉強が必要であり、当社の知識やノウハウの幅はより広がっています。すると、国内の医薬系企業からの引き合いにもつながってくるんですね。この譲渡は、当社の大きな強みの1つになったといえます。
そして翌年、東テクグループに入りました。そのメリットはいろいろとありますが、いちばんは営業の間口が広がったことです。アイ・ビー・テクノスの営業窓口に、東テクグループの窓口やお取引先様など、多様なお客様とのつながりが加わりました。東テクのグループ全体としての中・長期計画があり、当社もその計画に合わせた事業規模にしていかなければなりません。これは、会社としての挑戦です。これまで当社では明確な中・長期目標がありませんでした。それが今では目標のために何をしなければならないか、どうすれば達成できるのか、常に考えなければならない状況になった。会社を強くし成長させようという明確な意識が生まれたことは進歩だと考えています。
そしてもう一つ。上場企業である東テクグループは、当然、法令を遵守する企業です。社員の休暇、労働時間、給与といったことに厳格です。さらには「利益を社員に還元する」という考え方があり、これは当社がさらに飛躍するためには大事なことだと考えています。社員が安心して家族を養え、高いモチベーションで仕事に向かうことができる。自己を成長させる意欲も高まるでしょう。
顧客への感謝、社員への思い、そして次の半世紀へ
50年を支えてくださった方々への思いをお聞かせください。
今日までの成長の過程では、いろいろなことをお客様から教えていただきました。私個人の感想ですが、ひと言でいえば「厳しく」教えられ、育てられた。大変な経験もたくさんしました。お客様もその分野でのプロですから、遅れをとらないためには一生懸命勉強しなければいけないし、自分たちで作業できるようにならなきゃいけなかった。それは組織・体制づくりでもあり、まずは社員一人ひとりが仕事をできるようにすることです。もう必死でしたね、私個人としては「やるしかない、やり遂げるしかない」という思いでした。結果を出して、会社の発展や社員の幸せにつなげなければ意味がないと思っていました。
そうやって何とかやり遂げた感じです。それは、お客様が厳しいことを言うだけでなく、私たちの面倒をしっかり見てくださったことが大きい。要望にお応えし、仕事をやり遂げていった経験は、私たちの力になっていきましたので、本当に感謝しています。ただ、やり遂げるためには、社員に対して厳しくせざるを得ませんでした。怒っている人もいるかもしれませんが、付いてきてくれた社員には、やはり「ありがとう」の思いしかないです。
そして、お礼を申し上げたいのは協力会社さんですね。無茶・無理・難題に対してしっかり付いてきてくれました。だから、それに報いるため、しっかりと仕事が収益につながるよう努力をしました。ただ、採算を取ることが難しい時期はありました。お客様からコストダウンを求められるだけでなく、事業が小規模だった頃は買い付け価格がどうしても大手に比べて高くなりがちでしたので。苦しい時期を乗り越え、会社規模が大きくなっていくにつれ、買い付けコストは下がっていきましたね。
アイ・ビー・テクノスの、次の50年へ向けて思いを。
今回50周年を迎えられましたが、さらに半世紀後はどうなのか。この業種は世の中に必要なものであり無くならないと私は思っていて、その中でも当社は独自の立場をつくりつつあるので、必ず業界の中で生き残っていけると考えています。だからこそ、どういう会社を残すべきか、これからまだ我々が考えていかなければいけないと思っています。私はこの会社の役員として、さらに50年後、もっと強くて優しい会社にしたい。明確なゴールはないと思いますが、しっかり仕事ができ、世の中から必要とされる会社であること。しっかり利益を上げ、社員や協力会社さんの幸せを皆でつくり上げていきたいです。